姉妹校はじまり物語
最初に蒔かれた小さな種には、大きな希望が託されていました。
姉妹校それぞれの、知ってるようで知らない創立の頃の物語を紹介します。
(当時の会長名を記載しています)
小林聖心女子学院
小林みこころ会会長 辰巳 淳子(小み55)
初代院長マザー・マイヤーの精神は百年の歳月を超えて
小林聖心は、阪急今津線小林駅からやや傾斜の強い、長い「みこころ坂」を登った先にある。沿道には覆いかぶさるような木々と、敷地を囲む高い壁面。正門をくぐってもまだ校舎は見えず、最後に右に曲がった坂を登りきると、正面にアントニン・レーモンド設計による中学校校舎、右手に小学校校舎、そして左手には、やや奥まって高木に囲まれた塔のそびえたつ聖堂(本館)が、息をきらせて坂を登ったごほうびみたいに、突然、現れる。在校中は季節によって姿を変える木々の新緑や紅葉、満開の桜などを楽しむ余裕はなかったが、いまとなっては忘れがたい風景である。母校をおとずれる卒業生はきまって「こんな坂をよく毎日登っていたね」と懐かしく語り合う。
兵庫県宝塚市の高台にあるこの敷地に、学院が移転してきたのは1925年のことだ。
はじまりとなる学び舎は1923年4月、稲畑喜久子夫人(実業家で敬虔なカトリック信者だった稲畑勝太郎氏の長女)提供の別荘に開設した聖心会仮修道院だった。数人の生徒を集めてプライベートレッスンを開始。5月には兵庫県武庫郡住吉村(現在の神戸市灘区)にドイツ人の別荘を借り受けて、稲畑勝太郎、平生釟三郎の両氏を保証人に、住吉聖心女子学院を設立する。これが、小林聖心の前身である通称「住吉の聖心」である。初代院長はマザー・マイヤー。マザーが残された「Big You and small i (I)」「自己を押え、相手を思う」教えは、時代を超えて小林の生徒に引き継がれている。
住吉の聖心創立からほどない同年9月、関東大震災により三光町聖心の建物が壊滅的な被害を受ける。幸い休暇中で生徒は無事だったが、九州・朝鮮・関西方面の寄宿生はこの住吉に預けられ、生徒数がにわかに増加。別荘の建物だけでは収容できず、敷地内にバラックの仮校舎を建設した。ちなみに1995年の阪神淡路大震災では、被災した小林の生徒を三光町で一時受け入れてもらったことがあり、今も昔も、助け合える姉妹校のあることを心強く思う。
小林に移転したのちも、少人数の私塾のような雰囲気だった学院だが、戦時中は多くの困難があった。特に連合国側の国籍を持つマザーの多くは、神戸のち長崎の収容所に送られた。生徒たちも川西航空機製作所で勤労動員を命ぜられたが、当時の川瀬渡子校長が、機材を持ち込み小林を学校工場として働けるよう尽力されたというお話を、今回、JASH役員を通してうかがった。川西航空機製作所は爆撃でほぼ壊滅状態で「川瀬先生のご判断がなければ、わたしたちは生きていませんでした」と、今年九四歳になる卒業生がお話しくださったという。 百年という時代の折々に、たくさんのマザー、先生方の、ときに勇敢な愛情と志に支えられ、今日があることをあらためて思う。

住吉の校舎

昭和11年制服

小林に移転後の新校舎。聖堂(現・講堂)

戦時中、大阪上野芝射的場での射撃訓練
参考資料:『小林聖心女子学院50年史』(1973年発行)






