姉妹校はじまり物語
最初に蒔かれた小さな種には、大きな希望が託されていました。
姉妹校それぞれの、知ってるようで知らない創立の頃の物語を紹介します。
(当時の会長名を記載しています)
不二聖心女子学院
ドゥシェーン会会長 大年 寿子(ド31)
地域とのつながりを大切に他との共生を教育の旨として
不二聖心のはじまりを語るうえで欠かせないのは不二農園の存在です。この農園は明治のはじめ、禄を離れた江戸幕府の旗本7名が政府から官有地の払い下げを受け、ここ桃園の地を開墾したことに始まります。明治の中頃に茶の市況が暴落すると、この状況を見かねた実業家の鈴木藤三郎が農園を引き継ぎます。ところがその藤三郎も化学醤油の実用化に失敗し、農園の経営再建にあたったのが渋沢栄一と並んで明治末期の実業家として評される岩下清周でした。1914年のことです。
既に関西財界の一線を退いていた清周は、幽香夫人と共に桃園に居を移し、農園を「不二農園」に改称、果物や野菜の試験的栽培や温室栽培など先駆的な農園経営を行ったばかりでなく、農園従事者のための共同住宅や託児所までも整備し、地域の人々のために橋も架設しました。茶摘みの時期には近隣の女性が何十人も手伝いに訪れるなど、不二農園が地域に根付いた、アットホームなコミュニティであったことがうかがえます。
また清周は、農園従事者や近隣の子供たちが4キロ先の小学校まで通学しなければならない実状を知ると、1920年4月、私財を投じて小学校を設立します。立教大学在学中に受洗していた清周は、キリスト教の信仰による人々の救済を志し、「温情舎小学校」と命名しました。不二聖心の前身の誕生です。
初代理事長・校長には清周の長男でカトリックの司祭であった壮一が就任し、温かいヒューマニズムとカトリックの精神をもって自由闊達な教育が行われました。また壮一は、日本初のハンセン病の療養施設である神山復生病院の6代院長も務め、ハンセン病は遺伝するという間違った認識のもとに差別された患者の子供たちも温情舎小学校に受け入れ、健常者の子供と分け隔てなく愛情を注いで接したと言われています。
壮一の死後、不二農園は1945年に、清周の三女で日本の聖心会最初の修道女であったマザー亀代を通じて岩下家から聖心会に寄贈され、翌1946年には温情舎小学校の経営も聖心女子学院に移ります。また、学制改革によって1947年には温情舎女子中学校も開校されました。
1949年10月、共産党政権が中国で成立すると、上海聖心女子学院は閉校を余儀なくされます。そこで、1952年、上海から引き揚げてきたアイルランド人のマザー エリザベス・ダフを院長として八名の修道女からなる修道院が裾野に開設されました。同年、校名も「聖心温情舎小学校・女子中学校」に改称され、この年を不二聖心の創立年と定めています。
不二聖心では、今でも有志による近隣での奉仕活動が行われ、多様な地域から集まった生徒たちが共に学んでいます。地域とのつながりを大切にし、他との共生を教育の旨としてきた清周と壮一の想いは、百年経った今でも不二聖心の教育の根底に確実に息づいているのです。

温情舎小学校

不二農園で働く人々

温情舎の創立者 岩下清周

岩下壮一神父と温情舎の生徒たち

修道院長マザーダフのお茶摘み
参考資料:
『われらが学び舎 温情舎 創立八十周年記念誌(二〇〇一年三月二十日発行)
『不二聖心女子学院 創立五十周年記念誌』(二〇〇二年発行)






