日本語訳 「フィリピン・デュシェーンに光をあてる」

2018-06-25

Lights on Philippine Duchesne 
日本語訳「フィリピン・デュシェーンに光をあてる」

若者への魅力:数年前、二人の12歳前後の少年が修道生活についてのプロジェクトを手伝ってほしいと修道院の門をたたきました。私たちは聖心会のことを少し説明し、本や絵を渡しました。しばらくして、私たちは発表会に招かれました。会場に入ると、まず目にしたのはレベッカ号のデッキに腰かけているフィリピンの2メートルのポスター。熱のこもった発表から、彼らがフィリピンにどんなに共感し尊敬しているかが明白でした。フィリピンの勇気、献身、無私の愛が彼らの想像力を捉えたのです。その日、子どもたちを通して、フィリピン・デュシェーンが聖心会にとって特別の贈り物だという事を私は改めて認識させられました。

正義:1988年にフランスのシスターが企画した巡礼に参加する機会に恵まれました。訪れたのは、グルノーブルのデュシェーン家とペリエ家が過ごした立派な邸宅、フィリピンがこよなく愛したサントゥ・マリー・ドン・オー、そして峻厳なアルプスに立つグランド・シャルトルーズ。私にとって一番印象に残ったのは、シャトー・ドゥ・ヴィジーユでした。1988年当時、ヴィジーユの周辺には、「革命の揺りかご」と書かれた旗があちこち翻っており、1788年に作成され革命の引き金となった人権憲章(Charter of Human Rights)が展示されていました。これには、フィリピンの叔父のクロードがかかわっていたのですが、フィリピンはどの程度、彼女の周りで盛んに行われていた政治の話を耳にしたのでしょうか。貧しい人や虐げられた人の絶対的な擁護者になったことにどのような影響を与えたのでしょうか。ヴィジーユで、フィリピンの精神と心に近づく窓がもう一つ開かれたのです。

開拓者:3つ目の忘れられない出来事は、3月のある厳寒の日にフロリサンを訪れた時のことです。だだっ広い寝室で寒さに震えながら、同僚がフィリピンの時代の寄宿生活について説明してくれました。当時の厳しさは、この比ではなかったと、彼女は断言しました。彼女の話を聞いていると、夜な夜な、生徒の間を回っては安らぎと温かさを届け、そして水差しに張った氷を割ろうとするフィリピンの姿が目に浮かんできました。わびしい部屋に座りながら、英雄的女性の確たる勇気に対する畏敬の念に圧倒される思いがしました。

Lights on Philippine Duchesne

モイラ・ドネリー RSCJ
アイルランド・スコットランド管区  

訳:新井協子

 

 

 

 

 

 

 

 

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